如意輪寺について

浄土宗塔尾山 椿花院 如意輪寺

如意輪寺は、奈良県吉野山の中腹に位置し、春は桜に、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪と四季を感じ自然豊かな中に伽藍が連なっています。

当山は、延喜年間(901-923)三好善行の弟で醍醐天皇の御帰依を被った日蔵道賢上人により真言宗のお寺として建立されました。そして、後醍醐天皇が吉野に行宮を構えた際に、後醍醐天皇の勅願寺と定められ南朝(吉野朝)勅願寺ともなりました。

如意輪寺は、南朝と大変深い関わりがあるお寺です。正平二年(1346)、楠正行公は大阪府四條畷の戦いの前に、一族郎党143人と共に如意輪寺に参詣しました。正行公は参詣した者から少しずつ遺髪として髪を集め本尊前に143名分を奉納し、本堂の扉に弓矢を手に取り鏃(やじり)で辞世の歌を刻み、如意輪寺の過去帳に143人の名前を書き、四條畷に出陣していかれました。

その後、江戸時代に四国の戦国武将・長曾我部元親と、正行公の弟・楠正儀の末裔となる女性との間に生まれた文親と呼ばれる武将が出家して文誉鉄牛上人となり、如意輪寺中興上人として入りました。その際に真言宗から浄土宗へと改宗され、念仏を弘通し、御陵を守護するお寺として現在に至っています。

ゆかりの人物

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

第九十六代後醍醐天皇は、北条幕府を倒幕し京都で建武の親政を始められ、足利尊氏の離反により京都を逃れ吉野に南朝(吉野朝)をたて、尊氏は光明天皇を擁立し京都で北朝をたて対立することになりました。

如意輪寺は、後醍醐天皇勅願寺(南朝勅願寺)と定められ、後醍醐天皇は如意輪寺に祀られる如意輪観世音菩薩と金剛蔵王権現を熱心に拝み、日々祈願祈祷に来られますが、延元4年(1339)8月16日に、右の御手に剣を、左の御手に経巻を握り、尊氏がいる京都の方(吉野より京都は北に当たる)をにらみつけたまま崩御されます。そのときの綸言に、

唯生々世々の妄念となるべきは、朝敵をことごとく滅して、四海泰平ならしめんと思ふばかりなり。(中略)これを思う故に玉骨はたとえ南山の苔に埋ずむる共魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ

と残し、如意輪寺の御堂のうしろの林の奥に円丘を高くして葬られました。後醍醐天皇陵は「塔尾陵」又は「延元陵」と呼ばれ、天皇陵のなかで唯一の「北面の御陵」(歴代天皇の陵はすべて南向きに葬り奉るのを通規とする)となっています。後醍醐天皇崩御の後は、天皇陵を守護し菩提を弔い続けています。

楠正行(くすのき まさつら)

延元元年(1336年)湊川の戦で父正成が亡くなった後、11歳の正行は楠氏の惣領となると、約2年間にわたる幕府軍との天野合戦・河内合戦を戦い抜き、河内東条に安寧をもたらすとともに、吉野山に入った宮方、後醍醐帝の警護に努めます。

正行公成人の後、河内近辺にて賊にさらわれようとする女人を助け、尋ねたところ吉野朝廷に仕える女官弁内侍でした。早速家来に命じて吉野まで送り返します。のちに後村上天皇より内侍を正行の奥方にとのお言葉がありましたが、四条畷の戦には生きて再び帰れぬ覚悟であった為辞退されました。

正平3年正月5日。四條畷の戦いは早朝よりはじまり、夕刻にまで及びます。敵将高師直の軍勢約5万、味方は5千、一気に本陣に向かい、師直の首を斬りましたが影武者の首でした。七度空に投げ上げ残念がります。遂に弟正時と差し違えて討死にします。時に正行23才、正時21才でした。

弁内侍(べんのないし)

弁内侍は日野俊基の娘で、才色ひときわ勝れた美貌の持ち主で、いつどこで見初めたのか高師直が恋慕し、策を講じ誘い出し、都への拉致を図ります。折しも、正行が吉野に参内するため石川辺りに差し掛かった際、中から泣き声の聞こえる怪しげな駕籠に遭遇し、拉致された弁内侍を助け、吉野に送り届けました。

正行が四條畷の合戦で討死したことを知った弁内侍は、深い悲しみに沈みます。しかし正行への追慕の情を絶ち難く、ここ如意輪寺で黒髪を切り、

大君に仕えまつるも今日よりは心にそむる墨染めの袖

と詠い、尼となって吉野山を下り、山口村龍門の西蓮華台院(現西蓮寺)に入り、寂滅するまで正行の菩堤を弔い、正行への貞節を護ったと云われています。

境内図と伽藍について

1.楠公父子像
2.後醍醐天皇腰掛け石
3.楠正行公お手植えの木斛(樹齢670年)
4.赤腰蓑(豊臣秀吉公より拝領の椿)
5.藤本鉄石招魂碑
6.至情塚
7.小楠公髷塚の碑
8.正行公埋髷墳
9.塔尾稲荷

本堂

ご本尊に如意輪観世音菩薩をお祀りし、建立当初は、約12畳の大きさで如意輪堂と呼ばれていた。江戸時代に改修され現在の大きさになっている。

御霊殿

後醍醐天皇が自身で自分を彫った木像とともに、後醍醐天皇から後亀山天皇までの南朝御歴代天皇の御尊牌(御位牌)が奉祀されている。

御門

御霊殿の前の門で、この門は菊の紋があしらわれており、皇族の方が参拝されるときと後醍醐天皇のご命日に行われる後醍醐天皇御忌法要のときにのみ開かれる。

山門

神仏分離令の際に、如意輪寺は廃仏毀釈による影響を天皇陵があることから免れたが、山門は焼かれそうになった為、火が掛けられた焦げ跡がある。廃仏毀釈を物語る当寺唯一の名残である。

多宝塔

総欅作りの二重の塔で、塔内には阿弥陀仏をお祀りする。

不動堂

難切不動尊をお祀りする御堂。

報国殿

崖に沿うように地上よりも下に部屋などを造る「吉野造り」と呼ばれる建て方を用いている。

宝物殿

後醍醐天皇ゆかりの品をはじめ、楠正行が辞世の歌を刻んだ扉、兜、刀など南朝ゆかりのものや、お寺に残る仏像仏画や肖像画など数十点を展示公開している。