
御霊殿
第九十六代後醍醐天皇は、北条幕府を滅し当時の国是なる新政を行わんとされた。
たまたま、大覚寺・持明院両統十年迭立より端を発し、立太子事件が起った後、護
良親王は比叡山天台座主の位を弟尊澄親王に譲り、御自身は大塔に下り、軍書を読
み武術に精進された。ここに後醍醐天皇の北条氏討滅の計画を知った高時は、二階
堂貞藤をして京都にのぼらしめた。天皇は女官に姿を変えて奈良の東南院にお入り
になり、更に和束(京都府)の金台寺から、笠置山(京都府)に御入りになった。
時に元弘元年(1331)8月27日で、北条氏との紛争ようやく表面に現れてきた。
楠木正成は笠置に召されて後、赤坂(大阪府)に城を築き、天皇を御迎えせんとし
たが失敗に終わった。天皇は藤原藤房・季房と共に笠置より赤坂に向かわんとして
山中に迷い、その時の御歌に
さして行く笠置の山を出でしより天が下にはかくれ家もなし
と、藤房の返歌に
いかにせんたのむかげとて立ち寄ればなほ袖ぬらす松の下露
とある。のち、捕らわれて、宇治より御所に帰られ、翌年天皇は隠岐(島根県)へ、
尊良親王は土佐(高知県)へ、尊澄親王は讃岐(香川県)に移され給うた。
しかしこの間、護良親王は大和国十津川に兵を挙げ、伊勢を攻め、ついで吉野山
に城を築かれた(一方楠木正成は金剛山に千早城を築く)。吉野の戦は元弘2年
(1332)正月16日より始まったが、不幸にして敗れ、村上義光・義隆は戦死。こ
の父子の防戦の中に親王は高野山にのがれられた。
しかし、正成の千早城はよく智彗の戦をなし、包囲軍をして金剛山下に持久戦に
入らしめた。かかる間に新田義貞は鎌倉を攻め、天皇は名和長年に迎えられて隠岐
より還幸、元弘2年5月になって国乱静まり、翌年3月建武と改元せられた。
しかしながら、論功行賞に失敗して、訴訟沙汰頻繁に起った間、護良親王と足利
尊氏との間に険雲現われ、ついに鎌倉に親王暗殺されるや、事態は悪化の一路をた
どり、京都は再び戦場と化した。しかし、楠木正成・新田義貞・名和長年の計略成
功し、尊氏は九州に走った。しかし、この時三宝院賢俊の労により、光厳院(持命
院系)の院宣を尊氏に贈ることあり、ここに持明院を立てんとする尊氏は九州太宰
府に入って上洛の用意を整えた。延元元年(北朝建武3年-1336)4月3日、尊氏
十万の兵を整えて東上、新田義貞・楠木正成これをうけて湊川(神戸市)に戦い、
5月25日正成戦死、次いで6月晦日、名和長年もまた戦死し、尊氏は上洛に成功
した。ここに、豊仁親王を中心とする京都の朝廷と、後醍醐天皇を中心とする吉野
の朝廷と皇室に二派が生じ、吉野を南朝、京都を北朝と呼ぶに至った。
尊氏が京都に入洛すると、花山院を出られた後醍醐天皇は、延元元年12月21
日、宗信法印に迎えられて、吉野の吉水院に入らせられた。
花に寝てよしやよしのの吉水のまくらのもとに石はしる音
これは当時の天皇の御歌である。やがて今の蔵王堂のうしろに皇居を造り、天皇
を移し奉ったが、天皇は吉野の皇居に住居しつつも、京都に還幸する事を、平和の
日の一日も早く復さん事を念じられた。
臥しわびぬ霜深き夜の床はあれて袖に烈しき山おろしの風
みよしのの山の山守事問はむいまいくかありて花は咲かなむ
ここにても雲井の桜さきにけりただかりそめの宿を思へと
都だにさみしかりしを雲晴れぬ吉野の奥の五月雨の空
と歌われている。かくて日を送ること三年、延元4年(1339)8月9日御布例にわ
たらせ給い
露の身は草の枕に置きながら風にはよもとたのむはかなさ
と御覚悟あったようで、8月15日御位を後村上天皇にお譲りになり、翌16日十
六夜の月出ずると共に、右の御手に剣を、左の御手に経巻を握らせ給い、尊氏がい
る京都北の空(吉野より京都は北に当たる。)をにらみつけたまま崩御された。そ
のときの綸言に
「唯生々世々の妄念となるべきは、朝敵をことごとく滅して、四海を泰平なら
しめんと思ふばかりなり。(中略)これを思う故に玉骨はたとえ南山の苔に
埋ずむる共魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。」
とあり、その御終焉の形を改めず、棺槨を厚くし、御座を正しうして、如意輪寺の
御堂のうしろの林の奥に、円丘を高くして葬り奉った。これが塔尾陵で延元陵とも
言い、また、北面の陵とも言う(歴代天皇の陵はすべて南向きに葬り奉るのを通規
とする。)