後醍醐天皇

御霊殿

御霊殿(後醍醐天皇御自作の木造を安置し春秋特別公開しております)

第96代後醍醐天皇は、北条幕府を倒し親政を行わんとされた。たまたま、大覚寺・持明院両党10年迭立より端を発し、立太子事件が起こった後、護良親王(後醍醐天皇の皇子)は比叡山天台座主の位を弟・尊澄親王に譲り、ご自身は大塔に下り、軍書を読御自身は大塔に下り、軍書を読大塔に下り、軍書を読み武術に 精進された。ここより、後醍醐天皇の北条氏討伐計画が始まる。が、笠置より赤坂に向かう途中山中に迷われ、捕らわれの身となり 宇治より御所に帰られ、翌年 天皇は隠岐(島根県)へ移されますが、その間、護良親王は十津川(奈良県) で兵を挙げ 吉野山に城を築かれた。
 一方 楠木正成は金剛山に千早城を築く。この吉野の戦いは元弘2年(1332)より始まるが、不幸にして敗れ、村上義光・義隆は戦死。この親子の防戦により親王は高野山にのがれられた。のち、新田義貞は鎌倉を攻め、天皇は名和長年に迎えられ隠岐より還幸され、元号を建武と改元された。しかし、論功行賞に失敗し 護良親王は鎌倉で暗殺され、事態は悪化の一路をたどり京都は再び戦場化した。いったんは九州に敗走した尊氏が兵を整え再び東上し、新田義貞・楠木正成らがこれをうけて湊川(神戸市)に戦い、5月25日 正成・戦死、次いで6月長年も戦死し、尊氏は上洛に成功した。ここに、京都の朝廷と、後醍醐天皇を中心とする吉野の朝廷と皇室に 2派が生じ、吉野を南朝・京都を北朝と呼ぶに至った。

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梓の木

御霊殿の傍らに皇太子徳仁親王殿下の「お印」である「梓」が、高松宮様にてお手植えされています。

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