
正行公及び百四十三人が出陣に先立ち如意輪堂に奉納した髻は、その後、御陵の
西方の小高き所に埋めて石の五輪塔を建て、霊をまつり、楠塚と唱えた(蔵王堂陵
図‐柳沢元伯爵家蔵参照)
安政4年(1857)に至りこの五輪塔を廃して碑を建て、上方に「正行公埋髻墳」、
下方に「精忠兼至孝至節在天聞五百年前月今仍照髻墳 芳山司職免堂撰」と刻した
が、その後、御陵の拡張と共に現在の地に移転改葬された。
髻塚に対して、「小樟公髻塚の碑」が慶応元年(1865)津田正臣によって建てら
れた。その選文は、大和の豪士森田節斎である。その釈文を記すと
樟左衛門尉髻塚碑
正平3年正月車駕吉野に在り、賊将高師直大挙来り冠す。樟左衛門尉其の族党百
四十三人と行宮に詣で、陛辞し畢り、後醍醐帝陵に拝訣し、如意輪寺に入り各髻を
截り、姓名を壁に題す。然して後、進み戦うて克たず、皆之に死す。今茲に乙丑の
秋、益(註節斎の名)備中より郷に帰り、将に談山に登り遂に芳山に遊ばんとす。
会 津田正臣石を建て以て左衛門尉の髻塚を表せんと欲し、来りて文を益に請う。
益曰く、余旦に二山に遊ばんとす。子姑く之を待てと。己にして談山に登り藤原大
織冠の廟に謁す。規模の宏敞殿宇の壮麗人をして敬を起さしむ。芳山に登るに及ん
で首めて某所謂髻をうずめし処を問えば、蔓草寒烟の中に在って過る者或は知らざ
るなり。是に於て益低徊去る能わず潜然泣下して曰く、左衛門尉と大織冠とは皆王
朝のじん臣なり。而して大織冠は大熟を一撃に斃し天日を将に墜ちんとするに回し、
位人臣を極め子孫蔓行し百世に廟食す。左衛門尉は即ち賊を討ちて克たず、身を以
て難に殉ず。南風競わず宗族殆ど尽く。今其遺跡を求めんと欲してにわかに得べか
らず。嗚呼何ぞ其幸不幸の異なるやと。巳にして益涙を拭いて為へらく。其幸不幸
異なると雖も、其功未だ嘗て同じからずんばあらざるなり。夫れ大織冠回天の績は
偉なり。然るに之を左衛門尉父子の大節と比するに、彪炳日月と並び懸り、綱常を
無窮に存ずる者未だ其のいずれが愈されるを知らず。故に曰く、其幸不幸異なると
雖も其功未だ嘗て同じからずんばあらざる也と。益既に帰る。正臣復来り促す乃ち
前言を挙げて之に告ぐ。且つ曰く、方今夷猖蕨九重宵肝士力を国家に効すの秋なり。
事成らば即ち大織冠と為りて百世に廟食し、成らずんば則ち左衛門尉となりて節に
死し名を竹帛に垂る。豈に大丈夫平日の志願に非らずやと。正臣躍然起て曰く、是
以て左衛門尉髻塚を表すべしと。遂に書し以て之に与う。正臣字は仲相監物と称す。
世々紀藩に仕え、楠中将十八世の裔と言う。
慶応紀元冬十月大和処士森田益撰 伊勢三井高敏書